神なき時代の神

日本聖公会 聖ルシヤ教会 ホームページ 抜粋


 『神なき時代の神』とは岩田靖夫氏の著書の題です。岩波書店から2001年に発刊されました。

 科学・技術によって神が必要でなくなったのでしょうか。
  ここでは「生きることの意味」は何か、「善く生きる」とはどういうことなのかをキルケゴールとレヴィナスを見ながら論じ
られています。

 客観的に正しい知識(科学)の中には「善く生きる」ことの意味は発見できません。

 レヴィナスはアウシュヴィッツの経験から神の死とは他者の死だ、他者の殺害が神の殺害であったと言います。

 「他者を奴隷化し酷使し、搾取し、道具化し、物化し、自己の中に取り込み、支配し、同化し、植民地化し、殺すことが
神を殺すことなのである」(同書)。

 これらのことは私たちの社会で日々新聞、テレビで見聞するできごとではないでしょうか。
 自分さえよければよいという自己中心主義が引き起こす殺人、いくら働いても豊かになれない格差社会には他者を思
いやるゆとりすらありません。

 この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみに満ちています。
 「他者が絶対に奴隷化してはならない者、同化してはならない者、殺してはならないものであるならば、他者は無限に
高い者でなければならないのであり、その意味で神の痕跡でなければならないのである。(同書)」といいます。

 「他者」をキリスト教では隣人といいます。
 聖書の「マタイによる福音書」では、神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれ
たことなのである。」(25章40節)と言われます。
 そしてイエスは言います「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハ
ネによる福音書15章12節)」。
 キリスト教の愛とは人を人として大切にすることです。



 


 大阪の日雇い労働者の町、釜が崎にはカトリック・フランシスコ会の施設「ふるさとの家」があります。
 スタッフが食事をする部屋の壁には、並んで提供される食事の順番を待つホームレスと思われる人の中に一人だけ
輝く人が描かれた絵のコピーが張られていました。
 ニューヨークの街を題材にした版画家の作品だそうです。
 下には手書きで「小さくされた者の側に立つ神!サービスをする側にではなく、サービスを受けなければならない側に
主は、おられる。」と書かれていました。
 キリストの愛を実践する奉仕者、ボランティアの側に神がいるのではなく、奉仕活動を受けなければならない側に神
はおられるというのです。

 この町でこんな話しを聞きました。
 ある人が、あたりを見渡しながら路上のタバコの吸い殻を拾って、吸おうとしました。すると見ていた人が「おっちゃん
これ吸い」と新しいタバコを差し出しました。実は、新しいタバコを差し出した人は、自分が豊かで、拾って吸おうとした
人をかわいそうにと、哀れに思って差し出したのではなく、自分もそのような惨めな思いをした経験があったのだという
ことです。
 きっと神もわたしたちの側におられ、わたしたちの経験をよく知っており、わたしたちに「私は知っている。心配しなくて
も、大丈夫だよ」と寄り添い支えてくださる方ではないでしょうか。

 キリスト教では神と人に仕えることが勧められます。
 しかし、二股かける必要があるでしょうか。
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とはすでに引用しま
したが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福
音書18章20節)
 「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネによる福音書15章14節)とあります。

 神は天の高いところにいるのではなく、お互いに大切にしあう私たちのだだ中におられるのです。



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